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ジビーフ一般販売前に改めてジビーフとはどのような経由の肉なのかを知っていただきたい

公開日: : 2018/01/22 ジビーフ(完全放牧野生牛)

幼いころから和牛一筋で育ってきた僕は、日々の生活でも当たり前のように朝から肉を食べ、昼は昨夜のすき焼きの残りが詰め込まれた弁当を食べ、夜はまたすき焼きという、当時の日本の食生活から見ればなんとも贅沢な暮らしだったのかと思われそうだ。両親ともに肉屋勤めで隣に住む親せきのおっちゃんは午前中屠畜場で牛を殺し、午後からは軒先で肉や内臓を近所の方に売っていた。いま思えば、営業許可もとっていないだろうし、肉や内臓の出所も怪しいものだ。ハラミなんて屠畜場で働いていた人たちが勝手に持って帰っては自分の腹に納めているような時代でしたから。

このような環境で育ったものだから、肉に関しては詳しくなってあたりまえというか、導かれるように肉の仕事に就いたわけです。滋賀で育ったのでたまたま近江牛だったわけで、育った環境でホルスタインだったかも知れないし豚や鶏だったかも知れない。

手を延ばせば近江牛があるという生活だったので、それ以外の肉は口にしたことがなかった。私が肉の仕事に携わって今年で37年目になる。仕事上、和牛だけではなくいろんな肉を触ってきたが、和牛が世界一美味しいと思っている。いや、思っていた。

いまから5年前、きたやま南山の楠本さんから、北海道の「野生の牛」をドライエイジングできないかと相談があった。野良犬でさえ最近は見かけないの野生の牛なんているのか?。このとき私は福岡にいた。記憶の悪い僕が鮮明に覚えている。友人の大塚さんに博多駅まで送ってもらっている途中だった。なんでもかんでもエイジングできるわけではないのだが、後日、楠本さんから預かった4枚の手紙を読んで、なんとも不思議な気持ちになった。手紙の主は、北海道様似郡新富で牧場を営んでいる西川奈緒子さんだった。息子さんが愛農高校養豚部で楠本さんの三男(愛農高校卒:現在サカエヤ3年目)と同級生ということもあり保護者会で意気投合したのだとか。変わり者同志、さぞかし盛り上がったのだろう。


 

Gibieef(gibier + beef)ジビーフ
Gibieefとは私が考えた造語です。
完全放牧野生牛の肉質が鹿肉に似ていることからGibieef(ジビーフ)と名付けました。「ジビエ」とは、ハンターが狩りをして捕獲した野生の鳥獣を言うのですが、完全に野生のものをソバージュ(sanvage)と呼び、半野生(飼育したものをしばらく山野に放したり、 捕獲した後に餌付けしたもの)はドゥミ・ソバージュ(demisanvage)と呼んで区別しています。完全放牧野生牛はソバージュとドゥミ・ソバージュの中間ぐらいのイメージです。


 

とにかく未知なる牛肉は触ってみなければ分からない。私はすぐにイルジョツトの高橋シェフに電話をした。私の話を聞いて高橋シェフは興奮しているように感じた(いつもテンションが高いので気のせいだったかも知れない)そして4枚の手紙をFAXして電話を切った。しばらくして高橋シェフから「感銘を受けました。ぜひ使ってみたい」との返事をいただいた。ここからジビーフの物語は始まるのだが、近江の地でジビーフを扱うことの大変さというか、嫉妬や妬みが渦巻く銘柄牛の地はまぁまぁややこしい(笑)

8頭目まで見向きもされなかったジビーフだが、ここ最近はなぜか肉質が向上してきたのだ。環境やエサなど大きな変化があったわけではないのだが、いろんな要素が重なり良くなってきたのだと思う。それは人と人が繋がりジビーフを理解したうえで応援してくれる人たちの想いの連鎖なのかもしれない。この度、ジビーフは有機JASの認定を受けたのだが、たまたまジビーフが育つ環境が有機JASの規定に適していただけで、いままでもこれからもなにひとつ変わることはない。変わっていくにはジビーフの肉質だけであり、さらにおいしさを高めたい。牛肉とはそもそもシンプルであり、命もシンプルなものであり、和牛が世界一美味しいのではなく、私が手当てした牛肉が世界一美味しいと言ってもらえる仕事をしていきたい。それがたまたま和牛かも知れないし、ジビーフなのかも知れない。

以下は、5年前に西川奈緒子さんからいただいた手紙です。
長文ですがお読みいただけると幸いです。

私は、新千歳空港から車で20~30分位のところに位置する長沼町で、稲作農家の三女として生まれました。生まれながらにして、土や植物など自然を身近に感じながら育ちました。こうした環境で育ったせいか、いつしか「自然と向き合う農業」に魅力を感じ始めていました。

昭和57年に父がこの地で牧場を始めたのは、当時、米の減反政策で稲作農家の将来性にかげりが見え始める一方で、牛肉消費量が増加の一途を辿っていたときでした。
牧場を始める前に、国内をはじめ、カナダ等も視察しました。その結果、国内で主に行われていた和牛飼育の方法では、生産コストがかかり過ぎることと、広大な土地がある北海道の地形を生かさない手はない!と「自然林間放牧による肉牛生産」の方法を選びました。そして、放牧飼育でも十分な増体が期待できる品種として、和牛ではなく、アバディン・アンガス種とヘレフォード種をカナダから輸入しました。

長沼町から190キロも離れた場所、太平洋に突き出た襟裳岬にほど近い、日高山脈南部に位置する様似町の新富地区を肉牛の生産現場に選んだ理由は、広大な土地200ヘクタールが安価で手に入ったことに加え、襟裳沖からの潮風が牧草に適度な塩分を与えてくれること、その涼しい潮風のおかげで牛にストレスを与えるアブなどの害虫も比較的少ないこと等でした。

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こうして、父が牧場を始めたのは、私が小学校6年生のときでした。父は長沼での稲作生産を続けながらの牧場経営だったので、牧場には住み込みの牧場長を雇っていました。私は夏休みや冬休み等の長期休暇には牧場へ行き、牛の移動の手伝いや、治療を見ていました。北海道は当時も今も、農家間の距離が遠いうえに、獣医一人あたりが診なければならない牛の頭数が多いため、生後間もない子牛の下痢を見つけてすぐに獣医を呼んでも、来るのは半日以上経ってからというのが珍しくありませんでした。そのため子牛はどんどん弱り、死んでしまったり、治ったとしても、その後の生育は良くありませんでした。そんな現実を目の当たりにして、いつしか、この牧場を継ごうと考えていた私は獣医になることを決意します。

江別市野幌にある酪農学園大学の獣医学科に進学した私は、5年生から入る研究室(獣医衛生学研究室)で、一学年上の夫、雄三と出会います。夫は長崎県平戸の出身で、広大な北海道での牧場経営にも夢を抱いていました。意気投合した私たちは、夢を現実にすべく、私の卒業を待って、夫は長崎での共済勤めを辞め、平成8年3月に結婚し、私たちの牧場経営が始まります。

牧場設立当初は、まだ牛肉は自由化されておらず、サシの入っていないアンガスやヘレフォードでも十分に採算の取れる値段でホクレンに販売できていました。しかし、1991年(平成3年)4月、遂に牛肉の自由化が始まり、外国から入ってくる安い牛肉と品種も重なり、価格は一気に半値まで下がりました。牧場設立10年目のことです。

当時、大学3年生だった私に父は「牧場経営を続けるのは厳しいから、小動物の獣医になったらどうだ?」と持ち掛けました。金銭的な苦労などしたことがない私は、事の重大性を理解できませんでした。「私の目標は獣医になることではない、牧場をやるために獣医になるのだ!様似の牧場が無くなったら、私は他の牧場へお嫁に行く!」ときっぱり言いました。

それを聞いた父は、娘の夢を叶えるべく、なんとか牧場経営を続けられる道を模索し、今まで通り広大な土地を利用しつつ、輸入牛との肉質的な差をつけるため、アンガスと黒毛和種F1の生産に切り替えました。

私たちが引き継いだ時には、牛の頭数は800頭にまで増産され、既に、東京のチェーン展開をしているスーパーと契約を結んでの販売をしていました。

牧場があるここ様似町新富地区は、様似の街から15キロ、標高200メートルです。昔は200件程あったという民家は、私たちが就農した平成8年には、我が家の他に、90歳間近の一人暮らしのおじいちゃんと、これまた90歳間近の一人暮らしのおばあちゃんのたった二件!テレビはNHKの衛星放送2局しか映りませんでした(今は、ケーブルを引っ張ってもらって、ちゃんと地デジです!)現在でも「携帯は圏外」、インターネットも光どころかISDNすら無理な場所です。

当時は、夫と私、90歳間近の老人二人、人口4人に対して、牛800頭、野生動物は、熊、鹿、キツネ、タヌキ、ヘビ、イモリにヤモリ、数えきれないほどのカラスや野鳥。そのせいなのか、就農した翌年に生まれた長男の雄喜(現在、愛農高校の2年生、養豚部)は、人間の(?)言葉を話せるようになったのは、心配するほど遅かったのですが、一日の大半を野外で過ごしていた雄喜の周りには、いつも野鳥が集まり、何やら大きな声で会話をしていました。雄喜の手に野鳥がとまったりもしていました。

そんなのどかな環境とは裏腹に、私たちの牧場経営は過酷なものでした。放牧地で次々と子牛が生まれる春先は、産気づいた母牛のお尻にカラスがとまり、生まれくる子牛を待ち構え、目をつっついたり、緩んだ母牛の陰部をつっついたり、膣を引っ張ったり、カラスに引っ張られた膣を更にキツネが引っ張り出すという、特に温厚で陰部の緩みがちなヘレフォードは標的となりました。また、一度だけ母牛が熊に捕えられ、ふきの葉で隠されていたこともあります(熊は大きな獲物は一度で食べないで、人の入れないような急な斜面などに獲物を移し、木の葉などで隠して置いて少しづつ食べるそうです)

また、特に子育てが上手なアンガスは、外的から子牛を守るために人目につかない林の中で出産し、一週間ほど子牛を隠しておきます。一週間経って出てきた子牛は走り回り、耳標を付けるために捕まえるのも一苦労、やっと捕まえたら、母牛が子を守ろうとして人間にかかってくるのです。命がけの耳標付けです。

冬期間の母牛のエネルギー源に、サイレージ用のデントコーンを植えれば、植えた直後の種はカラスが、芽がでたら鹿が、実がなったら熊が夜通し食べにくる。バラ線や電気牧柵は、直しても鹿が通り、切れたり緩んだりした柵から牛が脱走して、道路に出ることもしばしば。

当時の生産牛は、通年林間放牧をしているアンガスの母牛に、和牛の種を人口授精で付け、生まれた子牛(F1)は6~8ヶ月令まで母牛と一緒に放牧してたっぷりと母乳を飲ませ、その後、母牛と離して、12ヶ月令まで放牧スペースのある牛舎で牧草主体に、徐々に濃厚飼料を与えながら育成し、12ヶ月令からは肥育期間に入り25ヶ月令前後で出荷するというものでした。

肉質は、B-2かB-3。食味的には、程よく脂がのっていて、あっさりしているのに「コク」がある。このコクは、放牧地に豊富に自生している笹やヨモギなどの野草を食べて育っていることと、現在も世界中で最も多く食べられているアンガスによる特性によるものではないかと考えられます。牛肉が苦手な方からも「ここの肉なら食べられる」と高評価を戴いておりました。

しかし、口蹄疫やBSEの発生、牛肉偽装など次々起こる問題で、国内の牛肉消費量は半減し、それに伴い枝肉価格も下落する一方でした。

スーパーでも店頭に並べた牛肉が売れず、肉の色が黒ずんで破棄しなければならないリスクを考えると、少しでも色の薄い肉、つまり運動させていない赤身の少なく「サシ」が細かくたくさん入った肉を置かざるをえなかったのです。当然、走り回って、たっぷりと運動している牛の肉は、筋肉中に色素成分であるミオグロビンが出るので、色は濃く、黒っぽくなるのです。牛肉消費の落ち込みと共に、和牛の市場価格もどんどん下がっていったので、販売側としては和牛を仕入れない手はなかったのです。

当時、販売契約を交わしていた東京のチェーン展開しているスーパーも例外ではなく、既にブランド名を付けて「安全安心な自然放牧牛」として販売していた私たちに、和牛に切り替えるか、もっと「サシ」を入れてくれなければ売れないと言ってきました。

もし、濃厚飼料でしか太れないように改良された和牛に切り替えたら、放牧飼育は不可能。運動していない母牛は、難産が多く、人の手で引っ張らなければならないほど。生まれた子牛はすぐに母牛から離し、人口ミルクで育てながら濃厚飼料に慣らされる。育成期間は良質な牧草をたっぷり与え胃袋を大きくする。胃袋が大きく、食い込みが良くなった牛を肥育するのは、一頭当たりのスペースが極力小さい牛舎で、濃厚飼料を食べる以外は、できるだけ牛が動けないようすることで、筋肉の発達を抑え、小さな筋肉と筋肉の間に脂肪が付くという、医学的には考えられない現象が「サシ」なのです。

自分で自分の体を支えるのがやっと、一定期間ビタミンを切らしたり、与えたりの操作をすることでサシを入れる。そういった、牛の生態系とはまったくかけ離れた飼育方法で牛肉を生産することに、どうしても抵抗があった私は、なんとかいままでの飼いかたでサシを入れられないかと試みたのが、「アンガスと黒毛のF1クロス」の生産でした。アンガスの血が25%、黒毛和種の血が75%、単純に考えたら和牛に近いのだからこれまでよりも「サシ」が入るはず。それに加え、放牧に適しているアンガスの血も25%入っているのだから、今まで通り母牛は通年放牧、子牛も6~8ヶ月令までは母牛と放牧できるだろうと考えたのです。種付けしてから3年、遂に世界初の「アン黒F1クロス」の肉の誕生です。

肉質は、B-2~B-3、まれにB-4。肉質にはばらつきがあり、期待していたほど「サシ」は増えなかったどころか、飼育期間を延ばしたにもかかわらず、枝肉重量は減り、結果的に収入はマイナスで、更に他では類を見ないこの牛は、市場価値を付けてもらえず、枝肉価格はホルスタインと黒毛のF1よりも安値での取引しかしてもらえませんでした。

レストランやホテルなどにも売り込みをし、使ってもらえたとしてもロースばかり。正味肉重量のわずか15%程度しかないロース、つまりステーキばかりを欲しがり、他の部位を自分で直売してみても限界がありました。

和牛に基準を置いた濃厚飼料の価格は上がる一方で、生産コストはかさみ、しかしそれに見合った採算がとれる価格では販売できない。経営的にも、精神的にも限界でした。

このまま牧場を続けられない状況になった私たちは、500頭いた牛をどんどん減らし、生活費を確保するために夫は牧場から60キロ離れた十勝の育成牧場で単身赴任をしながら専属獣医として働くことを選択しました。今から2年前のことです。三人いる息子たちは成長し、長男の雄喜がこれから高校というときでした。これからどんどん子供たちにお金がかかることもあり、私も獣医の免許をいかして働きにいくべきものなのかとも考えていたのですが、気がかりなことがありました。

それは、「この牧場の土地がどうなってしまうのか?」どんどん減っていく牛を見て、世間は牧場を辞めるのだと思い、聞きつけた何件かの外国の企業が「牧場を売ってくれ」と電話をかけてきました。もし、売ってしまったら、200ヘクタールあるこの土地は「遺伝子組み換え用の作物の種子の生産現場」にでもなってしまうのか?国の大切な財産であるこの土地が、外国の手にわたり、日本の不利になることは絶対に避けなければならないと思いました。

そしてもう一つ、農家の使命でもある「国民の食料を作ることで、国民を、国を守らなければならない」という信念を持った生産者が「安全」を重要視したとき、消費者の評価は薄く、経営は困難となる。自らの利益は欲さず、消費者の健康のため、自然環境のために尽力する生産者が報われない矛盾。そんな現実に屈しなければならない自分への怒りでした。

そんな時に、長男の雄喜が選んだ高校が「愛農学園農業高校」でした。限りなく便利とスピードを追求し続けるこの時代に、携帯電話もゲームも禁止、全寮制で「自給自足」の生活。生徒は勉学に励みながら、牛、豚、鶏を飼い、完全無農薬・有機栽培で米、野菜、果樹を育て、自らが調理し食べる。「人間の本当の生き様」をそこに見た気がしました。

そして、現代っ子にはとても過酷ともいえるこの生活を、自ら志願して入学してくる若干15~16歳の子供たちが、50年間途切れることなく居てくれたことに感動と希望をもらいました。「日本の将来、捨てたもんじゃない!」この若き英雄たちが卒業後、信念を貫いて生きられるようにするのも、私たち大人の使命であるならば、やはりここで諦めるわけにはいかない!そう思いました。

それまでどうしても手放せなかった純粋アンガスの母牛8頭と、純粋なアンガスの種牛1頭だけがまだ残っていたのと、高騰を続ける濃厚飼料を与えても採算が取れる見込みが無かったこともあり、今度は、中途半端な肉ではなく、本交によって授精し、生まれた子牛は好きな時に好きなだけ母乳を飲み、つまり、本来、草だけで生きる「野生の牛」を作ってみることにしました。勿論、輸入肉とは違って、濃いに決まっている!硬さは?=硬いに決まっている!

しかし、野生の鹿が「食肉」として評価されるようになったのだから、「国産の野生の牛」だって悪くないはず!

この度、やっと22ケ月令と23ケ月令の雌牛を出荷できる運びとなりました。そんなはじめての無謀ともいえる私の挑戦せずには終われなかった今回の牛肉を食肉として可能性があるのかないのか?ぜひ貴重なご意見をお聞かせ願えればと思います。

 

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